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著者 書名 刊行年 刊行国 出版社
2008070004 ケルテース・イムレ 運命ではなく 1975 ハンガリー 国書刊行会

評者:発起人    評価:9  読了日:2008/07/19  公開日:2008/07/20

14歳少年の強制収容所体験と思考を淡々と描くハンガリーの小説  

  ハンガリーの作家で2002年度ノーベル文学賞を受賞したケルテース・イムレ(1929-)が1975年に発表した小説デビュー作。(ハンガリー語では日本語と同様、姓-名の順で表記されるのでケルテースが苗字である。)

 ハンガリーの首都・ブダペシュト(ブダペスト)に住む「僕」(ケヴェシュ・ジェルジュ)は14歳。父さんと継母さんと暮らしている。実の母さんは父さんと離婚、「僕」は週に2度母さんと会うことになっている。「僕」の意思というより裁判の結果そうなっている。

 父さんが「労働キャンプ」に召集され家を離れる日の前日からこの小説は始まる。家族、同じマンションに住む人たちや訪れる親戚たちはユダヤ人である。もちろん同じユダヤ人とはいってもさまざまな考え方・生き方をしている。しかし1944年のハンガリーに住むユダヤ人たちはドイツの反ユダヤ人政策のため危機に直面していた。*1

 父さんと別れてまもなく「僕」も工場で働くことを命ぜられたが、ある日仕事に行く途中、ほかの工場の仲間たち、そして多くのユダヤ人とともに半強制的に拘束され、ドイツで「労働」することに同意し(させられ)、列車に乗り、悪名高いアウシュヴィッツ強制収容所に到着する。

 ここで「僕」は即ガス室送りになることを免れた。たった三日間の滞在だったが、この場所で何が行われているか、概略を知ってしまう。それまではアウシュヴィッツも強制収容所も何も知らなかったのだ。その後ブーヘンヴァルト→ツァイツの両強制収容所を経てブーヘンヴァルト収容所の病院で「解放」を迎える。*2

 「僕」は生き延びた。そしてブダペシュトに戻ってくるが、そこでは強制収容所の体験にもかかわらず着実に思考を発展させた成長した少年(とはもはや呼べないかもしれない)がいる。

 「僕」が体験したこと、出会った人たち(主に囚人たち)、肉体的苦痛と飢え、自由への渇望、倫理の低下が淡々と語られる。

 「運命ではなく」、自分が個人として結局は選び取ったということがあるのではないかというこの本の基本メッセージは重い。時代や環境、運命のせいにはできないのである。自分で引き受け選び取ったという「僕」の認識は軽薄な人道主義や政治の影を薄くさせる。

 この作品の主人公と同様に強制収容所を生き延びたという経験を持つ作者はあくまでも俯瞰的な視点を避け、14歳の「僕」の視点にこだわる。強制収容所を描くのにそもそも「神の視点」などありえないのである。生き延びた者の個別体験の積み重ねを読者は追体験していくしかないのである。そしてその継承という文学の仕事にこそおそらく望みがある。

「・・・つまり、運命とは僕たち自身なのだ、と僕は言った。」

 残念なことにケルテースの作品はこれしか翻訳されていないようだ。この翻訳(2003年出版)は岩崎悦子(いわさき・えつこ、1943-)によるもの。他にも訳してください。

*1 ハンガリーは枢軸国であり、同年3月19日にはドイツ軍が占領、5月15日から7月8日までにユダヤ系ハンガリー人約44万人が強制収容所に移送された。

*2 1945年4月11日、米軍がブーヘンヴァルト収容所を解放。

(*は芝健介『ホロコースト』(中公新書、2008)による。)  

   
   

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