感想文番号

著者 書名 刊行年 刊行国 出版社
2007020003 阿部謹也 「世間」とは何か 1995 日本 講談社現代新書

評者:発起人    評価:7   読了日:2007/02/08  公開日:2007/02/10

日本文学から探求した「世間」

 「世間」とか「世の中」という言葉を私たちはよく使う。ところが学問や公的な文書の中ではかわりに「社会」という言葉が幅を利かせている。

 現に著者の阿部謹也(あべ・きんや、1935-2006)の専門であるドイツ中世史も「社会」科学としてくくられている。決して「世間」科学などとは言わない。

「わが国の社会科学者は、学問の叙述に当たっては西欧的な形式を用いながら、日常生活の次元では古来の世間の意識で暮らしてきた。したがって叙述の中に自己を示すことができなかったのである。」(p7)という認識から出発した著者は「万葉集」、「徒然草」、親鸞、真宗、井原西鶴、夏目漱石、永井荷風、金子光晴などの文学作品での「世間」、「世の中」という言葉の使われ方を探求していく。

 そしてその意味の推移から現代の日本人が暮らしている「世間」の本質を、「世間」と「社会」のずれを、そして日本が稀有な例外をのぞいて強固な個人を生まず、したがって西欧的な意味での社会とは異なる「社会」が存在していることを明らかにしていく。

 女子学生から「先生、中年の男性ってどうしてあんなに汚らしいのですか」と「十数年前」(というから1980年ごろか)に質問されショックを受けた著者はそれをわが国の男社会(世間)の問題だと考えた。

「むしろ個性的に生きることに大きな妨げがあり、その枠をなしているのがわが国の世間なのである。」(p13)

「世間」という概念・言葉に正面から向き合ってこなかった日本の学問へのひとつの問題提起としては意義があったのかもしれないが、そこからの脱却の道を提示しているところまでは達していないように思う。

 本書が出版されて12年経過した今ではどうなのだろうか。むしろ「世間」はますます増殖しているように思われる。「世間」が「個人」を圧殺し、「個人」は「世間」を恐れる。しかもこの過程は陰湿で見えにくい。

 それにしても「万葉集」にも金子光晴にも共振するものを自分の中に発見するのは不思議な感覚である。


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