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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2006040009 | 木村敏 | 時間と自己 | 1982 | 日本 | 中公新書 |
評者:発起人 評価:8 読了日:2006/04/26 公開日:2006/04/28
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時間に追われながら読んだ精神病理学者の哲学的時間論
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時間ほど不思議なものはざらにはない。だが私のような俗人は普段、時間について思いをめぐらせるようなことはほとんどない。会社に遅刻する、終電に乗り遅れる、会議まであと10分なのに資料が全然できていない等々、時間は私に迫ってくる、到来してくる「もの」として意識されるのである。 いっぽう時間とはいったい何だろうかということについて一度も考えたことがないという人もめずらしいと思う。しかし時間は不可逆であり、再現不能であり、私を確実に死に向かって運ぶ流れのようなものであるということに思い至るや、それ以上考えることを普通はやめてしまうのである。だって考えたって仕方が無いじゃないかと思うのである。 ところが哲学的な人たちはとことん考えるのである。精神科医というより、本書のような哲学的論考で有名な木村敏(きむら・びん、1931-、京大医学部名誉教授・河合文化教育研究所(河合塾がやってるんだね!)主任研究員)も時間について考えたのである。 最初に著者は「もの」と「こと」の違いと関連について思索する。「もの」とは物質に限らずすべて客観、つまり見ることのできるものである。ところが日本語独特の語法である「こと」への感受性は「日本的心性の真髄」である。 「もの」としての時間と「こと」としての時間、この差異を見極めることがこの本の基本姿勢であるという。(私などは「もの」的に時間を捉えているということになるだろう。) 著者はベルグソンの「純粋持続」、ハイデッガーの「存在論的差異」、アリストテレスの時間論などを手がかりにたたみかけるように時間に迫っていく。 さらに精神疾患の三つのタイプ、分裂病(現在では統合失調症と言われている)、鬱病、癲癇それぞれの症例に「アンテ・フェストゥム」(祭りの前)、「ポスト・フェストゥム」(祭りの後)、「イントラ・フェストゥム」(祭りの間)と名づけることのできる特徴を見出し、それぞれに人間の時間認識の典型をさぐっていく。 それで結局時間とはどういう「こと」?などと知りたがる私には、次のような「答え」も用意されている: 「・・・時間とは何かという単純な問いが、そもそも不可能な問いだったのではあるまいか。・・・自己が自己自身であるということの意味がその人の生きかたによって異なるのに従って、時間の意味も違ってくるのに違いない。さまざまな精神病理現象を、自己の病理であると同時に時間の病理でもあるような事態と見ることによって、時間という問題に対する新しい観点が開けるのではないかと思われる・・・」(p185) ふむ?たまには脳の「筋トレ」などではなく、こういう本を読んで、人間にまつわる根源的な謎について考える「こと」も楽しい「もの」である。 |