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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2005070006 | 朱川湊人 | 花まんま | 2005 | 日本 | 文藝春秋 |
評者:発起人 評価:7 読了日:2005/07/16 公開日:2005/07/17
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花まんま、というよりそのまんまの第133回直木賞受賞作
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60年代から80年代のいずれも大阪の下町を舞台にした短編集である。語り手は(当時の)少年少女であり、各編ごとに異なるがそれぞれ不思議な現象が核に据えられている。しかしホラー色は薄く、懐かしさを呼び起こす物語が当時の子供たちの心を捉えていた事物とともに語られる。 「トカビの夜」では、「私」(ユキオ)は「小学二年の春から四年生の夏まで」(p8)、父の事業の失敗で東京を離れ、大阪の下町の「文化住宅」=賃貸長屋で暮らしていた。そこで出会った「チュンジとチェンホという、朝鮮人の兄弟」(p10)、特に「私」よりひとつ下の体の弱いチェンホとは、私の持っていた「怪獣」の玩具や本を通じて仲良くなるが、チェンホは死んでしまう。やがて長屋で起きる怪異現象−。 「妖精生物」では、「私」(世津子)は小学四年生の七月、近所の高架下で怪しげな男から「ずっと昔の魔法使いが作った、妖精生物」を買う。クラゲのように見えるその生き物は思春期にさしかかった「私」の淫靡な感覚を刺激する力を持っていた。唯一のエロチックな一編。 「摩訶不思議」の「アキラ」は三十過ぎで「ぶらぶらしている遊び人」の「ツトムおっちゃん」(父の弟)にかわいがられていた。ところが「おっちゃん」は歩道橋の階段から落ちてあっけなく死んでしまう。その葬式の日、焼場の前で霊柩車が止まってしまう。「おっちゃん」は未練があるのだろうか。「人生はタコヤキやで」と言っていた「おっちゃん」をはじめ大阪風お笑いに満ちた一編。 「花まんま」では、「俺」(俊樹)は三歳離れた妹のフミ子をどんな時でも守ってやるのが兄のつとめだと思ってきた。父が事故で死に、母子家庭となったのだからなおさらそうだ。ところが「フミ子」の様子が四歳ごろからおかしくなった。自分には彦根という場所で別の家族といっしょに暮らしていた記憶があるというのだ。七歳の「フミ子」の頼みで二人は彦根に向かうが・・・。(この作品ではファミコンが大流行しているので80年代中ごろの時代設定か。) 「送りん婆」は言霊の力で「生きているものを殺す呪文」をとなえて、臨終に苦しむ人を楽にする、いわば安楽死のような技を代々受け継いでいる。「私」(みさ子)の父母が勤める小さな運送屋の社長のお母さんで「私」が「おばさん」と呼んでいた老女がそうだった。ところが「私」が小学三年生のある日から、「おばさん」は「私」を助手として使うようになる。その言葉を聞いただけで死んでしまうという「送り言葉」も書かれているが・・・。 「凍蝶」での「私」(ミチオ)は「蔑まれる家に生まれた」。小さい頃から差別され、最初は仲良くなった友達も離れていく。こうして当てもなく毎日さまよっていた「私」は小学二年の秋、「大阪市営のM霊園」で「ミワさん」と名乗る「当時人気を集めていた髪の長い女性歌手にそっくり」の女の人に会う。「私」が故郷にいる弟に似ているのだという。私は毎週一度その霊園でミワさんと話したり遊んだりするのだが・・・。 各編とも読みやすく、核になるテーマも、構成もしっかりしていて、いかにも小説らしい小説になっている。 しかし私のように意外性を求める読者は、もう一ひねり欲しいなと思うだろう。演技は完璧でも、難易度が低い技を選んで無難に仕上げようとしてないかと思ってしまうのである。あ、もちろん、素人読者の勝手な趣味なので、この作品で作者の朱川湊人(しゅかわ・みなと、1963-)が第133回直木賞を受賞したことにケチをつけるつもりはない。 ちなみに報道によれば、直木賞選考委員の北方謙三は「現在の怪談を新しい説話として書き上げた。在日朝鮮人と被差別部落の問題についても決意を持って書いている」と評価したそうである。そうかな? |