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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2005060006 | アルベルト・モラヴィア | 1934年 | 1982 | イタリア | 早川書房 |
評者:発起人 評価:9 読了日:2005/06/16 公開日:2005/06/17
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「絶望と演技」を描いた二十世紀文学の巨匠による傑作
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イタリアの作家、アルベルト・モラヴィア(1907-1990)が1982年に発表し、同年千種堅の翻訳で出版された作品。私が最近本の山から「発掘」した本である。(今はハヤカワ文庫に入っているはず。) 北欧的知性(絶望)とイタリア的な明るさ(エロティシズム)が絶妙に組み合わされ、しかもそれが堅牢な論理構成の上に置かれているという点でいかにも小説らしい小説である。(小説はまず論理的でなければならないと私は思っている。) 時はタイトルどおり1934年、ナポリからカプリ島に向かう連絡船の中で27歳の「私」(ルーチョ)は「生きるのに絶望しながら、死にたくはない、そんなことが可能だろうか」という疑問に頭を悩ませていた。 その船上で「私」はひとりの若い女(ベアーテ)と出会う。女は隣にいるドイツ人の夫(ミュラー)らしい人物そっちのけで、視線で「私」に話しかけてくる。「私」はその女に浮かんだ絶望を読み取り、この女こそが自分が捜し求めていた運命的な女だと直感し、このリゾート地で女に近づくのである。 「私」はミュンヘン大学を卒業し、ドイツ文学の翻訳などをしている、インテリである。そして上述のような形而上学的な疑問にとらわれていたのだ。ヘンリエット・フォーゲルという愛人と心中(1811年)したドイツの詩人・劇作家ハインリッヒ・フォン・クライストがベアーテにエロティシズムと心中という固定観念を与えているのを「私」は直感する。 「私」は絶望からの解決策として「絶望の固定化」と自ら名づけた、絶望の中で生きていく方法をベアーテによる(クライストを踏まえた)心中の提案よって脅かされるのである。 ドイツではヒトラーが政権を握っており、イタリアはそれ以前からファシスト政権のもとにある。両国は同盟関係を強化し始めている。このような政治的背景はこの小説で重要な役割を果たしているのだが、「私」の感じている絶望は、どんな政治体制のもとでも感じるであろういわば実存的な絶望であり、「固定化」に失敗すれば、論理的に行き着く先は自殺でしかありえない。 ところが心中のため深夜「私」の部屋にしのんでくると約束したベアーテは現れず、翌朝夫婦でドイツに帰ってしまう。入れ替わるようにしてペンションにやってきたのは双子の姉・トルーデと母親・パウラだった。トルーデは容姿はベアーテと見分けがつかないほど似ているがその性格と行動はあからさまに肉感的である。 トルーデは私を誘惑しはじめるのだが、さて結末はどうなるのか?読んでのお楽しみだが、並みの(頭の悪い)ポルノ小説では得られない類のエロティシズムが感じ取れるはずだ。 以上の登場人物のほかに、英国人の美術鑑定家でカプリ島に美術館を持つシャピロという老人、その秘書で作中で延々とその身上話を語るロシア出身のソーニャなどの脇役も多彩であり、この小説の奥行きを深いものにしている。 太宰治の心中や、三島由紀夫の自決、川端康成の自殺などの「伝統」を持つわが日本文学界では創造できえなかった種類の「愛と死」の物語である。 |