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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2005050001 | 夢枕獏 | 上弦の月を喰べる獅子 | 1989 | 日本 | ハワカワ文庫JA |
評者:発起人 評価:9 読了日:2005/05/04 公開日:2005/05/04
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仏教哲学(風)SFの頂点を極めた力作
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「汝は何者であるか?」あるいは「私は何者であるか?」というのは哲学の根本的な問いである。また空間とは?時間とは?物質とは?進化とは?こうした問いに答えを出そうと人類(のほんの一部だが)はさまざまな努力を続けてきた。 おさえてもおさえても湧き上がってくるこうした「問い」はしかし絶望を生み出す。中島義道ではないが、気の遠くなるような広大な宇宙の中の単なる点に等しい私はたかだか数十年の命を終えると無に帰してしまい、おそらく二度とよみがえらない。したがって普通私たちはそのような問いを問わず、目をそらせて生きている。 しかし死んだあとも「私」という存在が消えないで何かのかたちでよみがえっているのだと思いたいのが人間であり、そのような願望を裏付けるような理論や物語を求めるのである。 仏教もそれに対する回答を用意している(らしい)。しかもその右中間、いや宇宙観は壮大であり、現代物理学や生物学とも相性が良さそうだ。ほんとうは「出家」をして、「修行」を通じて会得する「悟り」なのであろうが、普通の衆生には無理である。したがって私たちは出来合いの「救い」を求める。 夢枕獏(ゆめまくら・ばく、1951-)が1989年に発表(雑誌連載はそれ以前から)したこの小説はエンターテインメントという枠組みの中で、いやそうした枠組みがあるからこそ、こうした根本的な問いについての(おそらく)仏教哲学の立場からの答え=「救い」を真正面から提示できた。 小説という枠組みを壊さない範囲での頂点(もちろん須弥山=しゅみせん)に達していると言っても過言ではない。(とはいえほかに仏教哲学的SFで思い浮かぶのは半村良(はんむら・りょう)の『妖星伝』だけなのだが・・・)逆に言えば、この本がSF小説として書かれなかったとすればかなり危ういものになっていた可能性はあったということである。 物語の構造自体が中核的なイメージである螺旋、しかも二重螺旋の形をしている。螺旋はDNA(デオキシリボ核酸)の形状でもあり本書の最初のページには「螺旋図 deoxyribonucleic acid」と書かれている。さらにさまざまな神話や科学上の発見・逸話が語られ、螺旋が大いなる意味を持つ象徴としてこの本の中心にすえられている。 語り手のひとり、「わたし」=三島草平は「螺旋蒐集家」である。かつての恋人の死、報道カメラマンとして目撃した子どもたちの死に精神的にも傷ついていて、また病のため死が間近であることを知っている。「わたし」はある日新宿の高層ビルの中にあるはずのない巨大な螺旋階段を見る。 もうひとりの語り手、「わたくし」=岩手の詩人(宮沢賢治)もいもうとの死に衝撃を受けている。二荒山(ふたらくやま)で見つけた螺旋状のオウム貝の巨大な化石に大きな意味を感じている。 いっぽう蘇迷楼(スメール)と呼ばれる巨大な螺旋状の世界で意識を得、後にアシュヴィンと呼ばれるようになる「私」はこの螺旋を何かに促されるように上へ上へと登り続ける。この異様な世界で出会う人たち、「カルマ」(業)という脱皮により進化を繰り返す生物、原人たちと憎み愛しあい対立しながら「私」は問い続ける。 「私は何者であるか?」・・・「咲いている花は幸福か?」 やがてアシュヴィンの中にあるふたりの人格・記憶が顕わになりはじめる。「わたし」と「わたくし」、「螺旋蒐集家」と「詩人」。はたしてアシュヴィンはこの世界の頂点を見極め、問いに答えることができるのか?答えたあとの世界はどうなるのか? 本書は第10回日本SF大賞を受賞した。 |