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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2005040004 | 中島義道 | 哲学の道場 | 1998 | 日本 | ちくま新書 |
評者:発起人 評価:8 読了日:2005/04/08 公開日:2005/04/08
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中島先生、哲学風読物読者じゃだめでしょうか?
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この本のメッセージはたいへんわかりやすい。ひとことで言えば哲学は難しいということである。 そしてそれでもどうしても哲学をしたいという人、というか哲学せざるを得ない人には覚悟して臨め!というのである。 哲学にはセンスと暇、師と仲間そして修行が必要である。 まずセンス(素質)であるが、これは限られた人にだけ与えられたものである。その中心には「死への恐れ」がある。また根本的な「問い」を前にしての「驚き」の感覚がある。さらに忍耐力あるいは執念深さを持っていることが必要である。 キルケゴールの『死に至る病』を取り上げて哲学書との格闘の仕方について準備作業を行ったあと、著者の中島義道(なかじま・よしみち、1946-)は自身の経験を語る。何度も迷い、格闘し、青春時代を使って、両親・姉妹・妻が「哲学病」の「介護」を続けてくれてやっと37歳で東大の助手になるまでの軌跡が描かれる。 つまり膨大な時間が必要なのであって、暇の無い人間には哲学はできない。 さらに師・大森荘蔵や数多くの仲間との議論や思い出(エピソード)が語られる。哲学風読物愛読者の私としては、ああ狭い世界なんだなあとそこに出てくる名前に興味を覚えた。 たとえば、このウェブサイトで紹介した本を書いた人だけでも、『今こそマルクスを読み返す』(1990)の廣松渉(ひろまつ・わたる、1933-1994)、『<子ども>のための哲学』(1996)の永井均(ながい・ひとし、1951-)、『構造主義科学論の冒険』(1990)の池田清彦(いけだ・きよひこ、1947-)や『感じない男』(2005)の、いやそれを著した森岡正博(もりおか・まさひろ、1958-)などの名前が出てくる。 著者が開いているという「無用塾」という哲学道場のことも触れられている。 哲学に必要な「修行」の一端を知らせるためにか、最後にはカントの『純粋理性批判』の一節をテキストにいかに一流の哲学文献が難解であるかが例示される。 「哲学書は修行しなければ読めないことがトクとおわかりかと思います。」(p224) うう、おそれいりました。もう哲学などというものに性懲りも無く手を出すのはやめます、でも中島先生、この哲学の香りというかそういうもので十分楽しいと思っているような私みたいな人間も見捨てないで、これに懲りず長いお付き合いをお願い申し上げます。 |