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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2005040001 | 中島義道 | 悪について | 2005 | 日本 | 岩波新書 |
評者:発起人 評価:9 読了日:2005/04/01 公開日:2005/04/01
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悩め!悩み続けよ!と迫るカント倫理学の中島義道流解説書
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いやー、哲学とは難しいものです。難しくても何かが得られるのならまだしも、ほとんどわからない上に読むとまた新しい疑問が湧いてくる。しかし、何だか賢くなったような錯覚に陥り、しばらくは読んだ本の受け売りをしたくなったりするがそのうち忘れてしまう。 それなのに性懲りも無くまたときどき手を出してしまい、同じようなことで感心する・・・、という無限運動を繰り返し、そのうちエネルギーが低下して落下していく。 カント哲学研究者であるが、同時に日本の街の騒音と闘い、哲学風エッセイで新書ライターとしてもかなりの存在感を示している、中島義道(なかじま・よしみち、1946-)は私のような懲りない哲学風読物愛好家にとっては絶好の作家である。 しかし、本書『悪について』は同じ著者の『ぐれる!』(2003)と同様の受け狙いが前面に出された本のように見せかけながら実はかなり真摯な哲学本であった。 「はじめに」で著者はこう書いている: 「悪にまつわる私の唯一の関心は、善人であることを自認している人の心に住まう悪である。みずからを善人と確信して、悪人を裁く人、悪人を哀れむ人の悪である。」 「本書はカント倫理学を「悪」という側面から追っていったもの、いわば裏側から見たカント倫理学であると言っていい。」 カントの倫理学の基本的なフレーズを引用しながら、わかりやすく図示までして、著者はいちばん危険であるとカントが考えた<根本悪>とは何かということを理解させてくれる。<根本悪>とは殺人犯や放火犯などの「例外的」な犯罪者が持っているものではない。それとはまったく逆に適法的行為を行いながら、みずからもその適法性を信じながら行動する人間(=ほとんどの人間)の中に巣食うものである。 「文化(礼節)を維持しながら、他人たちの中に交じり合うことそのことが、ヘドロのように大量な悪を算出する。だが、われわれはそれを避けるわけにはいかないのだ。」(p201) しかし、根本悪から人間は脱却できるか?答えは示されていない。カントが示したのかどうかも明らかではない。 功利主義やプラグマティズムの上に成り立っているように私には思える現代日本に生きる身にとって、このように根源的・徹底的に考えた(ている)人がいるということは心強いことである。 もちろんこんなのはすべて特殊な近代キリスト教西洋文明の産物であるなどと言ってしまうこともできるのであろうが、無視できないのが「理性的存在」である人間の性というか業である。(というと仏教哲学のようになってしまうが・・・。) そう、永遠に悩み続けるのである。それとも「ぐれる」か? |