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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2005020002 | 見田宗介 | 現代社会の理論 | 1996 | 日本 | 岩波新書 |
評者:発起人 評価:8 読了日:2005/02/02 公開日:2005/02/02
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情報化・消費化社会の「転回」の可能性を探る理論を提示
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まったく門外漢である私にもこの本がかなり原理的レベルで現代社会を分析し、その「転回」の可能性と根拠を提示しようと試みたものだということはわかった。 社会学者である見田宗介(みた・むねすけ、1937-)の本を読むのはこれがはじめてだが、そもそも私は社会学という学問分野についてたぶん偏見を抱いている。おそらくこの学問分野が哲学とか法学とか経済学などと比較すると新しい学問であるということがひとつの理由である。もうひとつは社会学が現状追随の学問であって、現状変革の学ではないのではないかという感覚を抱いていることである。 さて、このような偏見を持っている私が、その偏見を意識した上でこの「現代社会の全体理論」の試みを読んでみた。 著者の視点は非常に「骨太」である。 まず、情報化・消費化社会が資本制システムの限界を克服したという理論が提示される。情報化・消費化社会が「需要の有限性と供給能力の無限拡大する運動との間の矛盾」を「資本のシステム自体による需要の無限の自己創出という仕方で解決」(p30)したのである。これは「初めて自己を完成した資本制システム」である。 ところが、このシステムは自らの外部、あるいは「臨界面」に「環境・エネルギー問題」あるいは「南北問題」と普通言われる貧困問題を生み出している。(この「貧困問題」は「発展途上国」だけの問題ではない。)著者は、この二つの「問題系」についての骨格を記述する。 そして、情報化・消費化社会の廃絶ではなく、その基本的価値(=欲望の解放、<自由>など)を踏まえた上で、これを「転回」し、この「問題系」を解決するための展望を述べる。ここでバタイユなどの考察を援用して、著者が述べているのは「自然収奪的でもなく、他者収奪的でもない」あり方、<他の何ものの手段でもなく、それ自体として生の歓びであるもの>である。 でもこの「転回」については、またそれを根拠づける<生の歓び>については素描の域を出ていないという感じはする。それから現実に飢えている何千万、何億という人々の存在、日々不可逆な程度に悪化している環境問題についてこのような「転回」で間に合うのかという危惧を持つのである。 私は「理論レベル」と「現実レベル」を混同しているのだろうが、<生の歓び>どころではない人々の存在への現実的なプランをも提示、あるいは提示する方法論を提示して欲しいとも思うのである。つまり、「転回」の主体は誰なのかという問題である。 著者が重視している学問への姿勢が「ほんとうに切実な問いと、根底を目指す思考と、地についた方法とだけを求める精神」(p188)であっても決して無視できない課題であると思う。 |