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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2004110009 | 舞城王太郎 | 山ん中の獅見朋成雄 | 2003 | 日本 | 講談社 |
評者:発起人 評価:8 読了日:2004/11/20 公開日:2004/11/20
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おい、王太郎!そのまま「純文学」の世界に逝ってしまうのか?
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舞城王太郎(1973-)の第7作。もともと「群像」という印刷部数が1万部未満の超マイナー雑誌に掲載された作品だけあって、いつもの「文圧」がかなり抑制されたものになっている。 「純文学」と「エンタメ」あるいは「大衆文学」「通俗文学」という区分けはよくわからない。「純文学」に対する言葉は「不純文学」あるいは「雑文学」であろう。「大衆文学」に対しては「エリート文学」とでも言うべきである。「エンタメ文学」に対するは「苦悩文学」だ。 本作はどうなるのか?帯のコピーには「これぞ最強の純文学!」とある。うーむ、強弱という尺度が入ってくるとますます混乱するな。最強の純文学があれば最弱のエンタメ文学もあるのか?と疑問は膨らむばかりであるが、.こういうゴタクはまた別の機会に述べる。 舞城王太郎作品の読者にはおなじみの、あの福井県・西暁町に住む中学生の獅見朋成雄(しみとも・なるお)=「僕」が語り手である。坂本竜馬と同じように、「僕」の背中には鬣(たてがみ)のような毛が生えている。そしてオリンピックの強化選手の誘いを受けるほど足がはやい。 「口をポカーンと開けて息して眠ってご飯を食べてグラウンドをシパシパ走っているだけで生きてる場合じゃなかった。」(p9) それではまるで馬のような動物じゃないか。人間にできることをしなければならない、というわけで「僕」は西暁町のはずれに一人で住んでいる、杉美圃モヒ寛(すぎみほ・もひかん)という奇妙な書家に書道の手ほどきを受けることにした。 ところが、ある日そのモヒ寛が何者かに襲われ、瀕死の重傷を負う。「僕」がそれを発見したのは、西暁町にいるはずの無い、一頭の美しい馬に導かれるようにしてだった。 当然、「僕」が警察に疑われる。「僕」は無実を証明しなければならない、またあの馬を捜さなければならない。そして「僕」は山ん中に入り込むのだが、そこで出会ったものは? この作品、テーマのひとつは「人間は何によって人間となるか?」というかなり教養小説がかったものであり、芸術と芸術におけるヒエラルキーというような問題も取り扱っていると思う。芸術至上主義と倫理の対立などというテーマもある。 しかし、不純物だらけで下品で猥雑なエネルギーで充満しているいつもの舞城王太郎らしくないのである。 もちろん、ひとりの作家が同じような作品ばかり書いているべきだとは思わないが、おい、王太郎、「そっち」の世界へ逝ってしまうのか?芥川賞を取るまではとりあえず、「そっち」でも顔を売っておこうと思っているのか?それとも今までの姿が「そっち」の世界へ走っていくための助走だったのか? 次作も読みたくなってしまうのである。 |