感想文番号

著者 書名 刊行年 刊行国 出版社
2004090002 永井均 <子ども>のための哲学 1996 日本 講談社現代新書

評者:発起人    評価:7   読了日:2004/09/02   公開日:2004/09/03

哲学の難しさを再認識させてくれる本−それでも哲学する?

 

 著者の永井均(ながい・ひとし、1951-)、今まで私は読んだことがなかったハズなのに、最近何故かどこかで聞いたことのある名前だなと思っていたら、あー、そうだった、勢古浩璽(せこ・こうじ、1947-)の『思想なんかいらない生活』(2004)で槍玉にあがっていた人の一人であった。永井への批判の見出しには、「なぜ僕は僕なの、って知らんがな」とある。

 この本は「<子ども>のための哲学入門書」であり、「自分で哲学するための入門書」だと言う。子どもが<>で括られているのは、「実際の年齢が子どもである必要はない」という意味を表している。

 著者がいかに、哲学してきたか、ふたつの問題に絞ってその思考の後をたどっている:「なぜぼくは存在するか」という問題と、「なぜ悪いことをしてはいけないのか」という問題である。

 勢古のように、「知らんがな」と言ってすませてもいいと思う。永井もこの問いにほとんどの人は無縁であると考えているようである。いくら<>で括ろうがどうしようが、子どもが現実にこの本を読んで理解できるとは思えない。私も理解したと言うつもりも無い。

 またこの本を読んで、著者の言うように、私も哲学してみよう!と思うということも無かった。そのような気にさせるようなものがあるとも思えないのである。

 私が理解したのは、うー、哲学者とは何とややこしいことを考えているのだろうということである。そして、私にはできないが、でもときどきは覗いてみたいし、面白い!という、たぶん非哲学的な感想も持った。(裏表紙の著者の写真を見て、何故この人は頬に手を当てているのかと、これもまた非哲学的な違和感も持ったのであるが・・・。)

 これは、そういう意味では哲学嫌いを作り出す本なのではないか?哲学の超越性、難解性、役に立たなさを強調しながら哲学へ誘い、講談社現代新書などという世俗的出版物の形で公にする矛盾は、著者も気づいているようだが、哲学の本質から来ているということか?でもみんながイチローにはなれないのと同じく、私たちもニーチェやウィトゲンシュタインにはなれないし、なろうとは思わないのである。

「哲学は、結局のところ何が言いたいのか、というような形で、その趣旨を要約するなんてことはできない。」(p114)

 それでは教養・趣味としての<哲学>でもいいじゃないか。


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