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著者 書名 刊行年 刊行国 出版社
2004060007 ジークムント・フロイト モーセと一神教 1939 オーストリア? ちくま学芸文庫

評者:発起人    評価:9    読了日:2004/06/29    公開日:2004/06/29

精神分析の創始者が死の直前に書き上げた迫力と矛盾に満ちたユダヤ人論

 

  精神医学、心理学だけでは無く、文学・思想・哲学など幅広い分野に大きな影響を与えた、ジークムント・フロイト(1856-1939)が死の直前に書き終えたこの作品、字面だけを追っていても十分面白い。(私はそのレベルの読者である。)

 しかし、何故、この精神分析の巨匠が自らが属するユダヤ民族の創始者、モーセをテーマにした本を書いたのか?

 もちろん、フロイトが1938年のナチスのオーストリア併合によって英国への亡命を余儀なくされたこと、そしてユダヤ民族がヒトラー政権によってかつて無い規模の迫害と危機に直面していたことは背景として押さえておく必要のあるポイントではある。

 しかし、それだけでは無いだろう。徹底的な無神論者であると自認していたフロイトが、最も厳しい一神教であり、いかなる偶像崇拝をも認めないユダヤ教について、そしてその宗教こそが形成したと言えるユダヤ民族について自らが考案した精神分析の手法を使って分析を試みたのが本書である、という言い方ももちろん可能ではある。

 ちょっと読んだことのある人にはおなじみの「エス」や「超自我」あるいは「抑圧」、「心的外傷」(トラウマですね)などというフロイトが発見した概念が手際よく自身の記述でまとめられている部分もあって、そうした概念を旧約聖書や歴史学による発見によるユダヤ民族の歴史に適用して分析しようとしている。

 モーセは実はエジプト人であってエジプトで一時勢いを得たアートン教という一神教を囚われていたユダヤ人たちに伝え、エジプトを脱出しこの一神教を純化したのであるという記述はその真実性は門外漢の私にはよくわからないものの、十分面白い。

 そのモーセが彼の教えの厳格性のゆえにか、ユダヤの民に殺され(いわゆる原父殺し)たらしいこと(これが紀元前13世紀ぐらいのことです!)、しかしモーセの教えは死なず、民族的危機を経て何度も甦り、しかもそれがパワーをまして現在に至るまでその一神教的厳格性を維持していることが語られる。

 モーセと世界で最も徹底的な一神教であるユダヤ教が個人の精神史、神経症の原因の発見になぞらえて記述されていると言ってよい。

 しかし、個人の神経症の治療活動のために体系化した思索をフロイトはある民族の歴史に応用したかっただけだとも思えないし、その試みが成功しているとも思えないのである。

 本書の翻訳者であり、読むとこの本のことが余計に分かりづらくなる長い解説(失礼!)を書いている渡辺哲夫(1949-)も指摘しているように(思うのだが)、この本におけるフロイトは大きな破綻をあからさまにしており、フロイト自身もそのことを理解しつつしかし書かざるをえなかったというようなところが感じられる。

 これはいったい歴史の本なのか、個人心理学を民族という集団に応用しようとする試みなのか、その試みが失敗に終わることを認識しつつひとりのユダヤ人として強迫的衝動にかられて書いたものなのか?

 謎と矛盾に満ちた本であり、『精神分析入門』やフロイトの入門本をちょっと齧ったぐらいの私には太刀打ちできないのである。でもわからないながらもフロイトの逡巡、ためらい、自己否定、矛盾などが読者にあからさまになっていて、そのことが逆にこの本に大きな魅力を与えているのかもしれない。


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