感想文番号

著者 書名 刊行年 刊行国 出版社
2004060005 夏目漱石 草枕 1907 日本 新潮文庫

評者:発起人    評価:10    読了日:2004/06/17    公開日:2004/06/17

小説についての小説−国民的作家漱石のずばぬけた先進性

 

  ついに、日本最高の国民的作家、夏目漱石(1867-1916)が「本の虫クラブ 」に初登場だ!

 国民的作家とは言っても、私のような21世紀に生きる一介のサラリーマンにとって易しい読み物かと言えばそんなことは無い。長い注釈を見て、やっと意味がおぼろげに判る程度である。

 とにかく当代随一の知的エリートが努力を重ね、その才を遺憾無く発揮した作品である。幼いときからの漢文の素養、俳句の創作、英文学研究とロンドンへの留学経験を経て日本に戻った漱石が意識的に創作家としての道を歩み出した頃の初期作品なのに、いやその故にか、中央線の混雑の中では最も読みづらい類の作品である。(もちろん、FM横浜の巻き舌のDJの声を聴きながら読むのもお薦めはできない。)

 つまり100年近く前に書かれたこの作品を私はすでに簡単には理解できなくなっているということだ。

「 山路を登りながら、こう考えた。

 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。」

という冒頭のあまりにも有名な、なんとなくリズミカルだが意味ありげな文章に騙されて読み進むと、たちまち渋滞に巻き込まれるのである。いや渋滞とは失礼である。つまり、各所に周到に配置された信号機につかまってしまうのである・・・という例えも的を射てないなあ。別にそんなに急がなくてもいいのである。

 語り手の「余」は画家である。漢文や俳句、英文学もよくする東京生まれの「余」は画題を捜して、鄙びた温泉場、那古伊(なこい)を訪れ、そこの宿に滞在する。そこで宿の主人(といっても老人だが)の(出戻り)娘で、近所の人からは「狂女」扱いされている美貌の那美さんと出会う。

 この女性を創造したことだけでもこの作品は凡百を抜いている。しかし、俗な小説のように単純に恋に落ちたりはしないのである。「余」がすべてを忘れて夜の温泉で詩的な境地にいると、突然同じ浴場に全裸で(って当たり前か)入ってきたりする奇矯な振る舞いをする那美さんであるが、「余」は彼女を画中の人物として見ている。だから、那美さんは決して俗にはならないのである。

「余のこの度の旅行は俗情を離れて、あくまで画工になり切るのが主意であるから、眼に入るものは悉く画として見なければならん。」(p146)

 「余」は「非人情」の世界にみずからを、現実の人物を、自然を置くことで画に表現したいという芸術論を長々と、桃源郷のような那古伊でのエピソードの間に展開するのだが、これがこの小説の中で一番おもしろいところであるとも言える。

 小説についての小説、小説(芸術)について考えることについての小説(芸術)という、ほら、あのメタ的な構造を持っているのである。(清涼院流水より九十年前にすでに漱石はそんなこともやっていたのである。)

 ああ、しかし、私のような読者は、この土地の風景の美しさ、那美さんをはじめ「余」が出会う那古伊の人々を視覚的にイメージができたかな?という境地に入る頃に運悪く新宿駅に着いたりしてしまうのである。

 何度読んでも、いろいろな事に気づく筈の重層的・知的な傑作である。是非まだ一度も読んだことが無いという人は喧騒から離れたところで手に取って見ては如何だろうか?


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