感想文番号

著者 書名 刊行年 刊行国 出版社
2004040001 なかにし礼 赤い月 2001 日本 新潮文庫

評者:発起人    評価:8    読了日:2004/04/03    公開日:2004/04/04

「国家」崩壊を生き抜いた女性の物語−日本版『風と共に去りぬ』か?

 

 かつて満州国という「国家」があった。現在の中国東北部に、日本が侵略して打ちたてた傀儡国家であった。人口構成で見ても、内実を見ても、日本が軍事力・警察力で無理矢理維持していた空洞国家であり、国際的承認も得ていなかった。(この問題がきっかけとなって日本が国際連盟を脱退したのはご承知の通り。)

 1945年8月9日、ソ連が日ソ中立条約を一方的に廃棄して満州に侵入すると、この空洞国家は音を立てて崩壊した。満州に移住して一旗上げてやろうとやってきた日本の民間人たちは、「王道楽土」(満州国のスローガン)どころか地獄を経験する。無敵のはずの関東軍や軍関係者が民間人を遺棄してわれ先に逃げていく。今まで日本人に抑えられていた満州人、中国人たちは公然と反旗を翻して日本人たちを襲う。ソ連軍の航空部隊や戦車部隊の圧倒的な戦力で毎日のように人が死に、人々は戦場から逃げ、生きるために奔走する。

 著者のなかにし礼(1938-)が生れたのもこの旧満州の牡丹江市。『てるてる坊主の照子さん』(2002)では日本の敗戦からの復活を明るく描いた著者がこの作品では、自身の言わばルーツを描き、それを通じて国家の虚構性、戦争の悲惨、人間の利己性をあからさまにした。著者自身に漂うように見える虚無主義の根底にこの満州崩壊体験があったのかと感じられる。

 しかし、この小説のヒロイン波子は男たちが国家崩壊に気力を失っていったのに対し、生き残ること、子供たちを大人にすることのために、男たちを愛しながら、傷つきながら、たくましく行動するのである。

 波子は石川県能登半島の貧しい農家の娘として生れた(1904)が、家族とともに北海道・小樽に移住した。16歳ごろには平塚らいてうの本を読み、毎晩洋装でダンスホールで踊る、美貌の娘になっていた。陸軍青年将校の大杉寛治と逢瀬を続けていたが、しかし大杉がプロポーズをしたその夜、地元の馬車屋の倅、森田盛太郎に惹かれ、森田に嫁ぐことになる。

 大杉はその後、軍のエリートコースを歩み、森田と波子に満州移住を強く勧める。森田家が移住をしたのが満州・牡丹江市。そこでの日本と関東軍の権益拡大に伴って、牡丹江で始めた日本酒醸造事業は大成功を収める。一郎、美咲、公平(この末っ子が著者自身をモデルとしているらしい)という三人の子供をもうけ、まさに栄華の絶頂というところで、この国家崩壊に遭遇する。全財産を略奪されての牡丹江からの逃避行、ハルビンでの苦しい生活が克明に描かれる。満州国家保安局の氷室、ソ連の女スパイ・エレナなど多彩な人物が登場し、この崩壊の物語の中で波子と関わってゆく。

 波子はイデオロギーには動かされない。あくまでも生き続けること、子供や男たちを守ることに死力を尽くすのである。公平など子供たちの波子への反発も描かれているが、作者の目は波子に肯定的である。絵空事を信じず、したがって国家崩壊にも耐え、現実的な選択を局面ごとにおこなっていく波子の生き方を、おそらく戦後数十年経って、著者は肯定する境地に達したのかもしれない。

「あなたは生きることの天才だ。」と著者は氷室の口を借りて波子への賛辞を送っている。

 映画化もされた(らしい)この作品、国が言うことを無根拠に信じてあるいは信じたふりをして、翻弄された多くの日本人とは違う生き方を選んだ波子の存在感が圧倒的である。


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