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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2004030009 | 吉田修一 | パーク・ライフ | 2002 | 日本 | 文藝春秋 |
評者:発起人 評価:6 読了日:2004/03/27 公開日:2004/03/27
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全篇に充満する不全感 − 吉田修一の芥川賞受賞作
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密かに進行する「近頃の芥川・直木賞受賞作」読破プロジェクト。今回は吉田修一(よしだ・しゅういち、1968-)の『パーク・ライフ』(2002)。 公園生活?通販生活なら知っているが、公園で暮らす人の話かと読み始めると、なんと、この公園は日比谷公園である。(私も昔勤めていた会社のオフィスが日比谷公園の近所にあったのでお馴染みの公園である。) 「ぼく」は「主にバスソープや香水を扱う会社で広報兼営業を担当している」(p11-12)サラリーマンである。営業や会議の合間に日比谷公園の決まったベンチに座って時間をつぶす。足元をみつめたまま地下鉄の駅から決まったコースを歩き、決まった方法でそのベンチに座り、これまた決まった方法で目を見開く。 「カッと目を見開けば、近景、中景、遠景をなす、大噴水、新緑の樹々、帝国ホテルが、とつぜん遠近を乱して反転し、一気に視界に飛び込んでくる。・・・頭の芯がクラクラして軽いトランス状態を味わえる。」(p10) 見方を変えると世界が違って見えるということか。でも普通人間は自分の周りのごくごく狭い範囲しか見ていない。 地下鉄に乗っていて駅の「日本臓器移植ネットワーク」の広告を見て、まだ同じ電車に乗っていると思い込んでいた会社の近藤先輩に話しかけたつもりが、近藤さんはすでに降りていた。後にいた見知らぬ女が普通の知り合いのように応えてくれた。 その「スタバ女」(スターバックスのカップを持っているから)は実は「ぼく」が日比谷公園の同じベンチに座っていることを別のベンチからいつも見ていたらしいのだ。こうして彼女と「ぼく」との「パーク・ライフ」が始まる。 とは言え、「ぼく」も「彼女」はずっと公園にいるわけでは無い。「彼女」がどんな暮らしをしているのかは具体的にはわからないが、二人は決して、できの悪い恋愛小説のように二人きりなのでは無い。 「ぼく」は自分のアパートがあるのに、夫婦別々に家出をしている宇田川夫妻に頼まれて夫妻のマンションでリスザルの「ラガーフェルド」の面倒を見ている。会社の仕事もあるし、ジムにも通う。高校時代に淡い恋愛感情を持った故郷の「ひかる」のことも思い出す・・・。 日常生活があるのだ。それは劇的では無く、だらだらと続き、破局やクライマックスも無く、ただただ続いていくのだ。これがこの小説を覆っている不全感の正体である。「スタバ女」の正体もはっきりわからないまま、この小説は終わってしまう。 だが、それは決して欠点では無い。むしろ現代の日本に生きる私たちが共有する感覚を見事に切り取って小説にしているといえる。そのナイフ捌き、切り口は見事である。 また、「ぼく」と「彼女」の将来は読者の想像に任されたままだが、この終わり方も不全感からの脱却の道を塞いでいるわけではなく、この小説全体に漂う間接照明のような明るさを消してはいない。 本書には表題作のほか、「flowers」という作品も収められている。 |