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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2004030007 | 舞城王太郎 | 熊の場所 | 2002 | 日本 | 講談社 |
評者:発起人 評価:9 読了日:2004/03/19 公開日:2004/03/19
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下品で、不気味で卑猥!でもこの現実感、力、そして笑い・希望は何だ?
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舞城王太郎(1973-)の四冊目のこの本は初の短編集である。 表題作の「熊の場所」のほかに「バット男」、「ピコーン!」が収められている。 ひとつひとつあらすじを書いていてもほとんど意味が無いし、未読者の楽しみを奪うと思うので、結論だけ言う! 舞城王太郎はすごい、読んだことの無い人は一度は読んでみよう!(その後どうなっても私に製造物責任は負えませんが・・・) 昨日感想文を公開した片山恭一 『世界の中心で、愛をさけぶ』(2001)を読んだ翌日に読むと、比べなくてもいいのに、この2作を比べてしまうのである。 『世界』がブルー・灰色系の装丁なのに対し、『熊』のほうは黄色のペンキを塗ったような背景に紫の熊のぬいぐるみと進入禁止の道路標識のような真っ赤なマーク、おまけに幼児用の絵本のようになにか詰めてあるのか柔らかに膨らんだハードカバーなのにソフトな肌触り。 とは言っても「熊の場所」は別にぬいぐるみが出てくる話ではなく、「恐怖を消し去るには、その源の場所に、すぐに戻らねばならない。」(p26)という語り手の「ぼく」が父から聞いたことを、自分の恐怖に向けて実行する話なのである。父にとっての恐怖の場所が、放浪中に出会ったカナダの森の中のグリズリー≒熊だったのだ。 『世界』に出てくる登場人物は(推定)愛媛県の地方都市に住んでるのに翻訳小説の登場人物のような文語的口語を、考え抜いた上で効果を見計らったようにして話す。(だからほんとに君たち中学生?という感じがするのだろう。) しかし『熊』の登場人物たちは、福井弁(推定)丸出しで、過剰なほどお喋りである。「バット男」の舞台は東京の調布らしいので、福井弁は出てこないが、3作とも過剰な、重複・繰返し表現の多い、現代口語で溢れている。考えや感情をそのまま叩きつけるような文章・会話文になっている。 『熊』に収められている最後の作品「ピコーン!」(題からして違うが)では「わたし」(♀)は愛する「哲也」を失ってしまう。『愛』では「ぼく」は「アキ」を失ってしまう。どちらも死別である。しかし「わたし」はどんどん「哲也」のことを忘れていくだろうことを理解し、松本人志のビデオを借りてきてゲラゲラ笑い、今後の自分の見通しをはっきり予感し、そして「哲也」の死の瞬間自分のことを「見て」笑って死んだんだという合理的で「幸せな」解釈をして立ち直りはじめるのである。世界が無くなったなどとメソメソ泣き続ける『愛』における「ぼく」とは違うのである。 『愛』はミリオンセラーになったが、『熊』はむしろ有害図書的扱いを受けて人の口に公然と上ることもあまりないだろうし、当然映画化もされないだろう。 私にとっては今こんなに面白い作家は舞城王太郎以外にちょっと思いつかないほどなのであるが・・・。 なお、「本の虫クラブ」中の舞城作品感想文へのリンクは次の通り: |