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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
| 2004030006 | 片山恭一 | 世界の中心で、愛をさけぶ | 2001 | 日本 | 小学館 |
評者:発起人 評価:7 読了日:2004/03/18 公開日:2004/03/18
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「愛と死をみつめて」21世紀版はどこが違うか?
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ついに、こいつに手を出してしまった!2001年に出版されながらもジワジワ売れて、たしかすでに百万部を突破、映画化も決定したという、涙、涙の「喪失感」の物語という触れ込みのこの本。 でも読んでみると、よくぞここまで古風に、ふざけもせず、深刻にもなら(れ?)ず、キラキラのままで(海や空や雪や太陽のキラキラだよ)始まり終わらせたなと感心してしまったのである。あんまりベタベタしていないのである。メソメソしていないのである。涙はいつか涸れて乾いていくのである。 「ぼく」と「アキ」は地方都市に住む中学の同級生。どちらも優等生らしく、自然に学級委員になって、怪我をした級友をクラス代表としてお見舞いに行ったのがきっかけで、どちらとも無く好きになり二人が成長するにつれて、物語は、うーん、幸せいっぱい、希望いっぱい、世界は「朔ちゃん」(=ぼく)と「アキ」のためにあるというそんな感じで進んでいく。 いやそれは違う。冒頭はいきなり「ぼく」がアキの遺骨を散骨するためにアキの両親と旅立つところから始まっているのである。そう、読者は「ぼく」の「世界そのもの」であったアキが死んでしまったことを知っている。彼女がいない世界は存在しないんだと泣きじゃくっている「ぼく」を知っているのだ。 「愛と死をみつめて」とか「ある愛の詩」とか何回も語られ続けてきた物語を片山恭一(かたやま・きょういち、1959-)は何故あえてまた語り直す必要があったのか?愛する人が病気や事故など理不尽にも自分を残して死んでしまう。残されたものはどうやってその痛みに耐えて、立ち直るのか?このテーマがかなり高い普遍性(と人気)を持っているからだろう。 そろそろこれでいきましょうか?殺伐とした暴力と性はもうやめて、いっちょ正面から行きますか?というようなことで書かれたのか?癒しですよ、泣きの後の癒しです、というような企画で書かれたのか? こんな意地悪なことを私が想像してしまうほど、この物語、芝居の書割のような背景で立体感無く進み(サイドストーリーも用意されているんだけどね)、ちょっぴり胸の奥が疼くぐらいで、スラスラと読み終わってしまうのである。 まあそれでいいのである。この作品がきっかけになって本を読む若い人が増えてくれれば私も何もいうことはないのである。 「たのんだよ、おまいさん」(p200) |