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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
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2004020004 |
長谷川宏 | 同時代人サルトル | 1994 | 日本 | 講談社学術文庫 |
評者:発起人 評価:8 読了日:2004/02/12 公開日:2004/02/12
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「最後の知識人」、サルトルに再挑戦してみようかなと思わせる好著
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世の中、不条理だらけである。別に中央線が遅れるとかそういうレベルの話をしているのでは無い。 実は、私としては精魂込めて作っているこの「本の虫クラブ」のレンタルサーバーが連夜のダウン!怒りが今私の胃のあたりでフツフツと塊を成そうとしているのが感じられるのである。いやそういうレベルの話でも無い。 神も無く、手本も無く、たったひとりで世界に投げ出された存在としての「自由な」人間。サルトル(1905-1980)なのである。 著者の長谷川宏(1940-)は在野の哲学者、とくに近年ではヘーゲルの翻訳で有名になった人として私は認識していた。(ドイツ政府から翻訳賞をもらっている。)その著者が今度はフランス語で書いたサルトルの本を原語で読み直し、青春時代(1960年前後?)の自分、日本と重ねあわせて、広い読者向けに紹介したものである。 私自身はサルトルが特に若い世代に大きな影響を与えた世代に属しているとは言えない。『実存主義とは何か』とか『嘔吐』などに学生時代いちおう目を通した程度である。(翻訳だよもちろん)「主体性」とか「アンガージュマン」とかいう言葉を共感を持ってだがさらっと受けとめたことは覚えている。しかし『弁証法的理性批判』とか『存在と無』のような大部な哲学的著作には手がでなかった。そういう本を読んでいたヤツはまわりにいなかったわけではなかったが・・・、今で言う引きこもりのような生活をしていたなあ。 文学、哲学、批評など多くの分野で書き続け、発言を続けたサルトルの思想を「まとめる」ということはあまり意味は無いのかもしれない。だが個々人の言わば「サルトル体験」というようなものがあった時代があったのだ。 どうしてサルトルは読まれなくなったのか?根源的な知というものが戦後の混乱が収束し経済効率の視点からの技術的知に置き換わったことがその理由であると著者は言っているように思われる。 さてそれでは今サルトルを読むことにどういう意味があるのか?長谷川宏にとっては自分の過去の行き方を、歴史を確認あるいは否定する意味があったのだろうと思う。でも読んだことの無い人にはどうなのか? この本のために、学生時代に読めなかったサルトルを読んでみようと思った中年がひとり生れたということは事実であるが・・・。(この本を手に取った直接のきっかけは サルトル 『ユダヤ人』(1947)を読んだということも大きい。) いつまでも「若さ」を持ち続けた二十世紀の思想家が考えたことを辿ってみることは決して無駄では無いと思わせる好著である。 それにしてもサーバーはいつ修復するのか? |