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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
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2003110006 |
藤田達生 | 謎とき 本能寺の変 | 2003 | 日本 | 講談社現代新書 |
評者:発起人 評価:7 読了日:2003/11/22 公開日:2003/11/22
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日本史の画期となった事件の謎にせまる
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1582年(天正10年)6月2日、京都の本能寺で織田信長は明智光秀の軍勢に襲撃され、天下統一を目前にして49歳で死ぬ。この本能寺の変、非常にドラマチックな事件であったため文学や映像作品でも数え切れないほど取り上げられてきた。 そのせいか歴史上の事件なのにNHKの大河ドラマのシーンや司馬遼太郎の小説等がゴチャゴチャになって頭の中にひとつのイメージが作られてしまっている。それらを総合すると、信長は天下統一を進めているかもしれないが、残酷である。たとえば浅井長政?の髑髏で酒を飲んだとか、比叡山や長島の一揆の皆殺しとか。実力があるものを抜擢しているのかもしれないが従来の功績者はすぐに切り捨てる。なによりも秩序や文化を軽視している。このままでは俺もやられると光秀は考えていたところ、徳川家康の饗応役を命じられ、その準備がなっていないと叱責され側近の森蘭丸に足蹴にされた・・・!うー、チャンスは信長が本能寺に軍勢を引き連れないでいるときしかない・・・。 著者の藤田達生(ふじた・たつお、1958-)は日本史学者であり、みずからの研究や最新の学界の成果を踏まえてこの事件の謎、とくに(私なんかには)常識になっている「光秀怨恨説」に疑問を投げかける。これは同時に「光秀単独犯行説」への疑問でもある。これだけの大事件を光秀ともあろう教養人が衝動的に個人的動機だけで(なんの政権構想も無しで)行うわけがないのである。つまり事件には黒幕がいたのだ。 足利幕府最後の将軍足利義昭である。1573年に義昭が信長によって京を追われたときが「足利幕府滅亡」のときだとされているが、義昭はその後も精力的に反織田の政治活動を続け、上洛による幕府復興を目指していたのである。京を追われたのちは毛利家を頼り、鞆(とも、現広島県福山市)に「幕府」を置き日本中の反信長勢力の連携の中心であった。著者は、光秀が信長打倒後は義昭を京に迎えることを計画していたこと、義昭もその気でいたことを明らかにしていく。 さらに、本能寺の変後まさに鬼神のような活躍で光秀を打ち、天下統一に成功したというイメージがある羽柴(豊臣)秀吉をめぐる伝説の実態も明らかにされる。 信長の「構造改革」が中世的権威や秩序の破壊を目指したものであるとすれば、秀吉は「朝廷をはじめとする既成権威に手をふれようとしなかった」(p188)。別に秀吉だけではなく、「権威構造を根底から変える大変革は、信長以降、今日に至るまで、ついに試みられることがなかったのである。」(p188)なるほど。 |