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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
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2003100011 |
ウィリアム・フォークナー | 響きと怒り | 1929 | アメリカ | 講談社文芸文庫 |
評者:発起人 評価:9 読了日:2003/10/25 公開日:2003/10/25
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「血」という観念が人間を支配する
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はっきり言ってよくわからない。難しい。晦渋(この言葉も難しいが)なのである。先日読んだ同じフォークナー(1897-1962)の『寓話』(1954)よりは読みやすかったがそれはあらかじめ身構えて読んだせいでもあるだろう。でもやはりド素人の私にも、この作品がその後の文学に大きな影響を与えたであろうことはなんとなくわかる。(日本でも中上健次とかそうですよね、多分)。 「客観的な」時間に沿ってでは無く登場人物の「意識の流れ」に沿って行われる記述、バルザックが意図的に用いた「同一人物再登場」や架空の町・家系・歴史の創造(このシリーズは「ヨクナパトーファ・サーガ」と呼ばれている)、語り手の頻繁な変更などこの小説にはいろいろな実験的手法が詰め込まれている。こういう手法を意識的に採用することで、物語は重厚になりより現実感が増すのだ。 米国南部にある架空の町ジャクソンの郊外に住んでいるコンプソン家とかれらに仕える黒人一家が主要登場人物である。作品は四つの章に分かたれている。最初の「一九二八年四月七日」では三男ベンジャミン(ちなみに彼は「白痴」であり、意味のある言葉はほとんど喋れない)、次の「一九一〇年六月二日」では長男クェンティン、続く「一九二八年四月六日」では次男のジェイソン四世が「語り手」となっているが最後の「一九二八年四月八日」は「客観的」な三人称記述である。私が読んだ講談社文芸文庫版にはフォークナー自身による「つけたし」が収められていて、コンプソン家の家系が遡って語られている。 さて文庫本でも600ページに及ぶ本作品、ひとことで語れるわけは無いのは当然だが、私が感じたポイントをひとつだけ言うと、やはり「血」=「血統」による支配という問題である。コンプソン家はかつては、その当主が知事を務めたり、将軍を生んだ家系であった。だがどんどん衰退し、この物語の主人公たちの代になると、父親のジェイソン・コンプソン三世は酒浸りでローマ時代の文人の本を読むだけの人物になっており、ベンジャミンに社会的能力は無く、クェンティンは妹との近親相姦の夢想にとりつかれてハーヴァード大学に行ったが自殺してしまう。長女のキャンダシーは次々と男を変え出奔し、私生児の娘、クェンティン(叔父と同じ名前である)を残しているがそのクェンティンも旅芸人と家出をしてしまうのである。 淫蕩な血、衰退する血、それを意識してもほとんど抵抗すること無くその血に支配されてしまうコンプソン家の人たち。もちろんここで言う血とは観念である。あるいは妄想であると言ってしまってもいいかもしれない。しかし人間はそのような観念・妄想によって支配される存在でもあるのだ。 これは「原罪」なのか?生きていることが、人間存在自体が罪であるということか?などと普段考えないことを考えさせられてしまいました。それだけの迫力を持った小説です。9点! |