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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
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2003090007 |
ウィリアム・サマセット・モーム | 月と六ペンス | 1919 | イギリス | 新潮文庫 |
評者:発起人 評価:8 読了日:2003/09/19 公開日:2003/09/20
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読者が期待する天才芸術家のイメージに応えた作品
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英国の文豪、ウィリアム・サマセット・モーム(1874-1965)の作品。 平凡な株式ブローカーのチャールズ・ストリックランドは、ある日突然、17年間連れ添ってきた夫人と子供2人そして仕事も捨ててロンドンからパリに出奔してしまう。小説家を志している「僕」(語り手)は若い芸術家(の卵)を昼食や夕食に招待することをささやかな趣味にしているストリックランド夫人から依頼されて、ストリックランドに会いにパリへ行く。 ストリックランドは夫人が想像(そして半ば期待)したように女と贅沢三昧をしているのでは無かった。ストリックランドはなんと、絵を描きたくてすべてを捨てたというのだ!絵=芸術ほどたちの悪いものは無いのに・・・。 「奥様やお子さんたちが、乞食をなすっても構わないとおっしゃるんですね?」(これは「僕」) 「あ々、ちっとも。」 (ストリックランド) 普通だと、読者も世間も何て野郎だっ、もーちょっと考えろっ!四十過ぎた株屋が絵を描く?と怒るところだが、これはさすがサマセット・モーム。この小説は、そもそも「僕」が、偉大な天才画家、ストリックランドについて書くというスタイルで始まっているのであって、晩年をタヒチで暮らしたことなど、この画家があのポール・ゴーギャン(1848-1903)をモデルにしているんだなということが読者には最初からわかる仕掛けになっているのだ。 つまり、このストリックランドの奇行自体も天才の行動として、最初から許されている。へぇー、そうか、なるほどね。すごい芸術家は違うねえ。それどころか、このストリックランド、いったい他にどんなことををしてくれるのか、読者に期待をもたせるんですね。その期待通りストリックランドは既存の道徳や社会の習慣から逸脱した行為をやっちゃってくれます。まあ今だとありふれた行為かもしれませんが、飢えと病気で死にそうになっていた彼を救ってくれ、しかも彼の芸術の唯一の理解者である画家のストルーヴ・ダークの妻ブランシュと暮らし始めるとかね・・・。しかしとにかくストリックランドには絵を描きたいというその一心しかないんですね。 そして、「僕」はこの小説の最後の部分でストリックランドが晩年を過ごしたタヒチに行く機会があり、島の人々からストリックランドの晩年の様子を知る。最後にストリックランドはどのような芸術的境地に達したのかなんてことも書かれているが、この小説の中ではストリックランドは無口でぶっきらぼうだ。そして彼の画を言葉で記述することはそもそも不可能だ。というわけで言わばドキュメンタリーのように、「僕」や周辺の人たちの記憶からこのあらかじめわかっている天才の生涯を描くという手法をとっているんですね。 でも、もちろんストリックランド=ゴーギャンでは無い。モームが作り上げた「物語」であって、芸術はよくわからないけど、それを作り上げた天才芸術家の「個性」といか生き方を知りたがる読者の暗黙の期待に応えた作品になっていると思う。これがおそらく私が読んだ新潮文庫版で訳者の中野好夫がモームは「通俗作家」だと(悪い意味ではないが)言いきっているポイントかな? 月が芸術を六ペンスが世俗を象徴しているのは言うまでもありません。(タイトル以外にはこの言葉は出てきていないと思うが・・・) |