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感想文番号 |
著者 | 書名 | 刊行年 | 刊行国 | 出版社 |
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2003080013 |
浅田彰 | 構造と力 記号論を超えて | 1983 | 日本 | 勁草書房 |
評者:発起人 評価:9 読了日:2003/08/27 公開日:2003/08/27
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近代を超えるための戦略を素描した名著
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20年前に刊行されて、ポスト構造主義、そして現代思想への「ブーム」に火をつけた歴史的著作。刊行当時は私にはこんな本を読む精神的余裕は無かった。今この私と同世代の浅田彰(1957生れ)のデビュー作を読んで、それで20年経ったけどいったいどうなったのかという想いを禁じることはできなかった。(20年ぐらいで答えの出る問題では無いかもしれないが・・・) 著者の言う、「砂漠へ」、「悦ばしき舞踏の術」を身につけよ、「クラインの壷からリゾームへ」というメッセージは今でも有効なのだろうか?このようなメッセージそのものがすでに近代によって呑み込まれ、流通させられてしまったということは無いのだろうか?著者は今でも「スキゾ・キッズ」なのだろうか? 著者は主にフランスの思想家ドゥルーズ=ガタリ(えー、これは言うまでもなく二人の名前ですからね!)に即して、構造主義からポスト構造主義の流れを要領よくまとめ、そして近代を超える新しい視野と思想を素描している。おそらく専門家を除いては、引用される古代から現代の思想家たちについての浅田の解釈について疑義を挟む余地は少ないだろう。 「なるほどね、そんなもんかね」というのがこの本を読み終えた人たちの感想だったと思う。少なくとも私はそうである。いやー、えらいね。そんなにお勉強してね、でもわしにはよくわからんけどね。うんうん、ニコニコ!いや、もちろんね、なるほどね、と思うところもあったよ・・・。たとえば?うー、ほら、近代の競争を引っ張る誘導装置?それがパパ−ママ−ボクのエディプス的家族だとかね・・・。「次々と新たな差異を作り出すこと。それによって生じるポテンシャルの差を運動エネルギーに変換して、より先へ進んでいくこと。これは文字通り際限のないプロセスである」(p196)とかね。でもそうだとすれば近代というのはほんとに手ごわい相手だよね。 「・・・監督が一体いまそこにいるのかさえはっきりわからないのだが、その不在の視線はやがて確実に子どもたちのうちに内面化されていき、ひとりひとりが自分自身の監督の役割を引き受ける」、「自主的相互競争」(p212)の場としての近代。それどころか今問題になっている街かどの監視カメラとか、住民基本台帳なんかはもっとすごいよね。情報技術で武装した近代?(ほんとは監視カメラがあるかどうかわからないということ自体が「安定化」につながるんですね、かならずしもはっきりあるといわないでもね。でも今や監視カメラを全員が身につけてるのと同じですからね、・・・カメラつきケータイとか、GPSとかね)。 「放っておけばどちらを向いて走り出すかわからない人間という怪物を、いかにして社会秩序の中に組み込むかという問題」(p217)の解決策としての近代は実にうまくできているのだ。 その意味で、いいじゃないかそれで、近代のままでと言う(思っている)人と、前近代へ郷愁を覚える人そして著者のようにポストモダンへ「逃走」しようと呼びかける人がいて不思議ではない。 私?うーん、わからない。この著者の、そして著者が紹介している思想家たちのその後の仕事ぶりを追ってみたい。 |